美寿知さんのお名前の話、或いは斎王兄妹が両親に愛されていた可能性について

平安時代中期に作られた辞書「和名類聚抄」に水神または蛟、和名『美豆知(みずち)』とあり、これが美寿知さんの名前の元だと思われます。
ここから色々調べてたら斎王兄妹について私的にすごく夢が広がったので書き出します。なるべく真面目に調べましたが後半は大分妄想こじつけです。
あとなんかもう清々しいくらいにアニメ本編の描写からの考察要素は薄いです、というかほぼ無いです。

 まず大元のミズチについて、日本のミズチは中国の蛟竜と関わりが深いと思われるので先に日本で書かれた「中国の蛟」に関する記述から挙げます。
 方熊楠が書いた「十二支考」の竜の起原と発達という項では支那で古く蛟と呼んだは『呂覧』に、し飛宝剣を得て江を渉る時二蛟その船を夾み繞ったので、飛江に入って蛟を刺し殺す。『博物志』に孔子の弟子澹台滅、璧を持って河を渡る時、河伯(黄河の神)その璧を欲し二蛟をして船を夾ましむ。滅明左に璧右に剣を操って蛟を撃ち殺し、さてこんな目腐り璧はくれてやろうと三度投げ込んだ。河伯も気の毒かつその短気に恐縮し三度まで投げ帰したので、一旦見切った物を取り納むるような男じゃねーぞと滅明滅多無性に力み散らし、璧を毀して去ったと出づ。曹操が十歳でしょう水に浴して蛟を撃ち退け、後人が大蛇に逢うて奔るを見て、われ蛟に撃たれて懼れざるに彼は蛇を見て畏ると笑うた。
 また晋の周処少い時乱暴で、義興水中の蛟と山中の虎と併せて三横と称せらるるを恥じ、まず虎を殺し次に蛟を撃った。あるいは浮かびあるいは沈み数千里行くを、処三日三夜随れ行き殺して出で、自ら行いを改めて忠行もて顕れたという。

 又同項に、山本亡羊の『百品考』に引いた『荒政輯要』には月令に〈季夏漁師に命じて蛟を伐つ、鄭氏いわく蛟を伐つと言うはその兵衛あるを以てなり〉とあるを解くとて蛟は雉と蛇と交わり産んでその卵大きさ輪のごときが埋まりある上に、冬雪積まず夏苗長ぜず鳥雀巣わず、星夜視れば黒気天に上る、蛟孵る時蝉また酔人のごとき声し雷声を聞きて天に上るいわゆる山鳴は蛟鳴で蛟出づれば地崩れ水害起るとてこれを防ぐ法種々述べおり、月令に毎夏兵を以て蛟を囲み伐つ由あるは周の頃土地開けず文武周公の御手もと近く「がく」が人畜を害う事しきりだったので、漢代すでにかかる定例のがく狩りはなくなった故鄭氏が注釈を加えたのだ。ともあります、あまり良いイメージは無さそうです。

 十二支考、蛇に関する民俗と伝説で「わが邦でも水辺に住んで人に怖れらるる諸蛇を水の主というほどの意でミヅチと呼んだらしくそれに蛟の漢字を充てたはこれらも各支那の水怪の号故だ」と 記述されているように「ミズチ」は日本でも(中国に比べるとそのイメージはあやふやな物だと言われてますが)蛟竜と重なり人へ害をなす存在として認知されていたようです。

 最古の出例としては『日本書紀』の巻十一〈仁徳天皇紀〉の67年にあるミツチの記述で吉備の中つ国の川嶋河の分岐点の淵に、ミツチが住みつき毒を吐いて道行く人を毒気で侵したり殺したりしていた。 そこに県守という名で、笠臣の祖にあたる男が淵までやってきて瓠(瓢箪)を三つ浮かべ、ミツチにむかって、そのヒサゴを沈めてめせよと挑戦し、もし出来れば撤退するが、出来ねば斬って成敗すると豪語した。
 すると魔物は鹿に化けてヒサゴを沈めようとしたがかなわず、男はこれを切り捨てた。さらに、淵の底の洞穴にひそむその類族を悉く斬りはらったので、淵は鮮血に染まり以後、そこは「県守淵」と呼ばれるようになったというもの

 又、『万葉集』巻十六に、境部王の作による一首「虎尓乗 古屋乎越而 青淵尓 鮫龍取将来 劒刀毛我」に「ミズチ」が読まれているが、これは「虎に乗り古屋を越えて青淵に蛟龍捕り来む剣太刀と訓読し「トラに乗って、古屋を超え、水を青々とたたえた深い淵にいき、ミズチをひっ捕らえてみたい そのための立派な太刀があったらなあ」ほどの意味である ミヅチの害は奈良時代にも有名だった
 これは中国の治水伝説で洪水は蛟龍の害であるという考え方の影響を受けたものである 五雜組という本に「急に暴風雨があったり洪水になったりするのは蛟が出たのである」という事が書かれている
 中国では、龍は道教および仏教の影響で霊獣化されながら、反面古来より河川の氾濫や暴風雨のように人畜を害する事も龍の仕業と見なされていたため そうした被害をもたらすものは神聖な龍ではなく 蛟龍とされたのであって、この考え方が日本にも伝わっていたのである 県守に退治された龍もこの類であったからミヅチと書かれているのだろう、と笹間良彦の『図説龍の歴史大事典』に記述されています。

 「ミズチ」は本来水の霊の意で水神もしくは水神の使わしめと考えられてきたが仏教や大陸文化が到来するなかで蛟龍と結び付けられ、時代を経て零落し人に退治される悪しき龍や悪霊の類とされたという。
 何れにせよ、名としては人に害をなし恐れられる化け物のような存在であると言ってよさそうです。本編の斎王兄妹の境遇を考えると凄まじく胃が痛くなりますがこれはあくまで元ネタの「ミズチ」としてです。
 ここで語りたいミズチさんは「美寿知」であり、昔の陰陽師のように式神を操る古風な巫女さんです。長々と書きましたがここまでは前フリとして次からが本題です。

 先にざっくりと言ってしまうと「美寿知」は人々に恐れられる龍である「美豆知(蛟)」を祝福した名であり、美寿知さん(ひいては彼女の兄)に対する誰かからの祈りだったと解釈できるのでは?というのがこの話で言いたい事です。又その誰かは少なくとも古い祭祀等や異能の力に対し理解のある人物だという前提になります。

 美寿知さんの名に入る「寿」は言祝ぎを語源とし、言祝ぎは言葉による祝福、幸福を祈る事を意味しています。又、万葉集で「言霊の幸ふ国」のようなことばがあるように日本では言霊信仰が根強いです。
 更に美寿知さんは巫女ですが、朱鷺田祐介の「図解 巫女」では古来の神道祭祀について自然の力を人格化し、寿ぎ、祝い、純化させることである。とあるように本来共同体の外から来る神は人外の怪物、オソレ(恐れ/畏れ)られる異界からの客人であり。その神を祭祀によって共同体に幸をもたらす存在に変えるという手法を取ってきたと記述されています。
 古き恨み、悪しき力、悍ましき想い、あるいは病原体や悪習さえも「穢れ」として祓い清め、神として再生させる事であらゆるものを受け入れてきたとも。
 又、夢枕獏の「陰陽師」という作品には「この世で一番短い呪は名である」「言祝ぎは最上の呪、最上の浄化である」といった記述が出てきますが、後者は先ほどの祭祀の話とも重なりますね。
 これらから美寿知さんに人々の理解を超えた異能の力が災いにならぬよう彼女の物心つく前に名を与え、その誕生を祝福し幸せを祈ったが今はいない人の存在が居たのでは?となります。
 順当にみればその人は生みの親であり、子を想っていたが病気などで既に亡き人になっているという所に落ち着きますが、祝福を籠めた名前を残した繋がりを感じて良いです。

 余談ですが、GX本編の大徳寺先生(アムナエル)から「錬金術が全てを金に変えるというのは、表面の現象に過ぎない。その真意は、人の心をより純粋で高貴な物に変える事なのだ」という台詞があり その大徳寺先生をして錬金術への非凡な才能を認められた十代さんにとっての錬金術は「融合」に象徴され、その後ユベルに対し「超融合」を使う事でユベルから破滅の光を祓いユベルの魂を受け入れるという展開も「悪しきものとされた龍を純化し受け入れる」っていう構図があると言えなくもないので上で書いた美寿知さんのような解釈もその派生という感じでアリじゃない?と思いました。
兎にも角にも斎王兄妹にはこれからも周りの人達と末永く健やかに暮らしてほしいです。

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